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◆花峯橋/平成16年2月17日登録 花峯橋は、昭和4年の油津岩崎と東郷間の県道工事に伴い、堀川運河に架橋された。その後、第二次世界大戦後間もない時期に、堀川運河内の2ヶ所の橋脚基礎をコンクリートに変更している。当時、堀川運河周辺は、飫肥杉(弁甲材)の貯木場として、多くの木材業者が飫肥杉の集積と加工を行っていた。花峯橋が架橋される前は、堀川橋(石橋)と見法寺橋(板橋)しかなく、飫肥杉運搬が馬車から自動車に変化する中で、花峯地区の土地にあった木材業者にとって、土地を有効利用するためには架橋することが必要であった。 橋の構造は、木造方丈橋で、橋長26.8m、幅員6.1mを測る。橋脚護岸には、堀川運河に張り出した石積み護岸の基礎を築き、堀川運河内には約9m間隔で、2ヶ所のコンクリートの橋脚基礎を設けて、その上に主柱を建てている。各主柱には橋桁を支えるほおづえが両側に7本ずつつあり、それぞれが横桟とボルトにより固定されている。 架橋されて以後、飫肥杉を満載したトラックが往来しており、相当の強度を誇っていた。現在は、橋脚部分の老朽化により、通行を2トン以下の自動車に制限している。宮崎県内において、戦前に架橋されて、都市部に現存する木造橋は数少なく、堀川運河の歴史的景観を構成する要素として重要であることはもちろんのこと、国内の木造橋の歴史を考える上でも重要な物件である。 ◆堀川運河護岸/平成16年2月17日登録 堀川運河護岸は、明治時代から大正、昭和初期にかけて、堀川運河の両岸が飫肥杉(弁甲材)の貯木場となったことにより、護岸の補強のために、各土地の所有者である河野家や川越家などの木材業者が石積みで築造した。また、堀川運河からの舟運が主な交通機関であったことから、運河沿いの各所に石段が設けられた他、飫肥杉を揚げ降ろしするために、斜路と呼ばれる傾斜スロープも各所に設置された。 堀川橋周辺以外の堀川運河両岸は、泥湿地であることから、石積みの護岸を築くには、松木杭を何本も打ち込んだ後、木製の組み物を置き、その上から石積みを行っている。石材は日南海岸の砂岩を、外面の一面を長方形のほぼ同一規格になるように加工して、間知石積みの谷積みで積んでいる。 戦後は、石積みの一部がコンクリート擁壁に覆われていた。今回、宮崎県の堀川運河整備(歴史的港湾環境創造事業)では、コンクリート擁壁を撤去して、石積み護岸を伝統的な工法によって復旧し、往時の景観を回復する工事が実施されている。 堀川運河護岸は、日本国内のみならず、朝鮮半島や台湾、中国における木造船の主な船材として使われた飫肥杉の貯木場の繁栄を物語る遺産であり、油津の町並みの歴史的建造物群とともに、歴史的資源として重要である。 ◆広渡川石堰堤/平成16年2月17日登録 飫肥藩伊東家5万1千石の特産品である飫肥杉を積み出すために、貞享3年(1686)完成した堀川運河の取水口に築かれた石積みの堤である。堀川運河は、広渡川の河口近くから油津港を結ぶ全長約1,450mの運河で、山から伐採された飫肥杉が酒谷川や広渡川を筏で流され、安全に油津港へ回送させることと、飫肥藩の御用船の船倉を確保することが目的で開削されたと考えられる。 石堰堤は、堀川運河に流入する水量を調整するのが目的で築かれており、取水口の上流部から下流部へ突き出すように築かれた断面台形の石積みの堤である。平部嶠南の『日向地誌』には、長さ37間、馬踏1間、堤敷3間、高さ1丈1尺としるされており、現状の約20mの長さに較べてかなり長いことが知られる。石材は日南海岸産出の砂岩で、堤の上辺と先端は水流に耐えられるように、丸く仕上げられている。また、堤の両側の基底部には石敷きがなされており、広渡川側にはその一部のみが残されている。 このように、石堰堤は、江戸時代前期の堀川運河開削時から昭和の初めまで、堀川運河の水量調節に欠かせない施設であった。 なお、堀川運河の取水口周辺は、洪水のたびに浸水して被害があったので、大正時代末に堤防工事が行われ、さらに昭和5年に堀川運河取水口に閘門が設置されて、石堰堤と閘門の間にも新たに石積み護岸が築かれた。 ◆渡邊家/平成18年3月27日登録 油津町下町の「京屋」と呼ばれた豪商で、天保5年(1835)から廻船問屋として事業を拡大した。明治41年(1908)には大阪商船会社の油津荷客扱店(電話2番)として、関西と油津をつなぐ主要交通機関を担った。明治45年(1912)には桜ヶ丘の現在地に酒類醸造場をつくった。 今回登録する主屋は、平入りの正面庇と格子付の木造平屋建で、江戸時代末の油津の商家建築を代表する外観となっている。昭和初期に主屋の一部は増築されている。敷地の奥には、焼酎、家財、薪等を収納した大中小の3棟の土蔵がある。戦前にはもう1棟米蔵があった。昭和6年の『油津商工案内』には「酒類醸造業京屋商店 宮崎県油津町下町 電話10番」とある。平成16年度には、NHK連続テレビ小説「わかば」の舞台(「村上酒造」)として、建物入り口が撮影場所となった。 ◆外山医院/平成18年3月27日登録 外山医院は油津町下町で皮膚科、内外科、小児科を開業している。当該物件は、中町通とマグロ通の交差する南東角に位置する昭和初期に建てられた2階建瓦葺の洋館である。1階は受付、待合室、診察室、調合室、薬品室、食堂等の洋間が中心で、2階は和室4室が主となっている。日南市内では数少ない洋館で、油津が最も繁栄した時期に建てられた洋館として現存する貴重な建物である。昭和6年の『油津商工案内』には玄関に陸屋根の庇がつき、敷地外周には、鉄製の飾り柵が巡らせてある写真が掲載されている。 ◆鈴木旅館/平成18年3月27日登録 マグロ通の突き当たりにあたる油津町上町に位置して、油津が飫肥杉とマグロ景気で沸いた大正から昭和初期にかけて、多くの宿泊者で賑わった老舗旅館である。当時、上町だけでも4軒の旅館があり、「マグロ半年、木材半年」といわれるほどにぎわっていた。創業は明治27年ごろとみられ、昭和初期に離れ(16号室)の平家建や別館の2階建(17号室と7号室)、さらに奥の居宅、土蔵が建てられた。このころには、野口雨情や中山晋平、土屋文明なども宿泊している。部屋は15部屋で、玄関口は改装しているが、往時の部屋割りや雰囲気をよく留めている。昭和6年の『油津商工案内』には当初の玄関を撮した写真が掲載されている。 ◆服部家/平成18年3月27日登録 飫肥の豪商服部家の別荘で、堀川運河右岸、油津港に近い河口部に位置する。服部家は、江戸時代からの材木商で、明治時代にぶり大敷網で財を成し、その資金を飫肥杉の1千町歩の大造林を行った。 敷地外構の石垣は堀川運河の護岸をかねた壮大な規模となっている。主屋は明治後期に建てられており、昭和31年に増改築されているが、外観は寄せ棟で下庇を廻らす当初のままである。広大な庭園も、主屋と同時期に関西の庭師田島萬之助が作庭した。少し前までは、服部家が経営するブリ網の大きな倉庫が隣接する敷地にあった。 ◆満尾書店/平成18年 3月27日 油津町下町通角に建てられた昭和4年頃の瓦葺2階建(一部3階建及び地下室あり)擬洋風建築(看板建築)である。当初は、洋品雑貨、文具等を扱っていたが、まもなく教科書販売も行っている。2階の外観のうち、道路に面した南面と東面はモルタル洗い出しの洋館風壁面となっており、関東や関西で流行した昭和初期の典型的な商家建築が、九州の南端でも確認できる貴重な例である。屋根裏の小屋組は典型的なトラス構造で、設計者名は不詳だが、市外の建築家と見られる。 ◆杉村金物本店主屋/平成10年10月26日登録 明治25年(1892)創業の老舗で、油津の発展とともに大きくなった。昭和11年(1936)に合名会社杉村富士太郎商店と社名変更し、昭和50年(1975)に、杉村金物本店となった。 現在の主屋建物は昭和7年(1932)に建築されたもので、木造3階建てで、1階が店舗、2・3階が住居となっている。縦長の窓や外壁の銅板張りは洋風の意匠を取り込んでおり、宮崎県を代表する洋風建築である。後ろには、大正9年(1920)煉瓦造り3階建ての倉庫がある。戦時中には供出で外壁の銅板をとられ、戦火で3階の一部を焦がしたが、戦後、復旧し、往時と同じ外観を現在に伝えている。 油津港の整備が行われ、マグロや飫肥杉で賑わった、大正時代から昭和15年頃まで)の同店では、大阪から届いた注文品を従業員が港まで大八車で取りに行った。取扱う商品は創業以来、金物・漁具・船具等であった。 ◆旧河野家と油津赤レンガ館/平成10年10月26日登録 油津の「河宗」として有名な河野家の一族、河野宗人が大正11年頃、下町通りに面した主屋に、二階建てを増改築するとともに、中町通りに面して赤レンガ倉庫を新築した。 赤レンガ倉庫は、一時期ブティック「柿八年」として利用されていたが、平成9年に競売にかけられそうになったため、市民31名が資金を出し合って、合名会社油津赤レンガ館を設立し、全国的にも珍しい、民間による買い取り保存を行った。 その後、ミニコンサートやワインフェスタ、地ビールまつりなど、さまざまなイベントに使用されてきた。 平成16年3月、旧河野家主屋と赤レンガ倉庫など建物一切と土地すべてが、市に寄付されて、油津の賑わい拠点として整備活用されることになった。 ◆堀川橋(通称:乙姫橋)/平成10年12月11日登録 堀川運河によって陸地から切り離された油津の人々にとって、最も大切な橋は、堀川運河の対岸にある吾平津神社へお参りする堀川橋である。石橋の堀川橋が架けられるまでは、油津板橋と呼ばれる橋であった。長さ17間(約31m)、幅1間5尺(約2.7m)、高さは干潮水面より4間半(約8m)で、欄干付きである。明治26年(1893)の吾平津神社周辺を描いた絵図には、トラスによって橋桁を支える木橋が描かれており、油津における進取の気風が感じられる。 この橋は、利用頻度の増加に対応して、明治36年(1903)に石橋の堀川橋に架け替えられた。工事は、飫肥の石工石井文吉が施工し、約4年の歳月を要した。堀川橋は、長さ21m、有効幅員4.85mで、現在も使用されていて、油津と堀川運河の歴史的景観を代表する風景になっている。平成4年には「男はつらいよ 寅次郎の青春」(第45作)のロケ地にもなった。平成10年に国の登録有形文化財に登録されている。
by obidara
| 2009-02-09 19:06
| 杉コレ in 堀川運河
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